日経225
本来の姓は「ノヴィコフ」で、「波濤」を意味する「プリボイ」はペンネーム。貧農の息子としてロシア帝国タンボフ州の農村マトヴェイェフスコイェに生まれる。教会の学校に通い、ポーランド出身の敬虔な母は、彼が修道士になることを望んだ。しかし世界を旅した水夫の話を聞いて、船乗りになることを夢見るようになる。 兵役のため22歳で陸軍に入り、希望したバルト海のクロンシュタット軍港に配属される。母の影響で彼は日曜学校に欠かさず通い、文学作品に親しむようになった。クロンシュタット滞在時に初めて新聞に投稿している。しかし1903年に革命プロパガンダを広めたという理由で逮捕された。日曜学校の教師の勧めで禁書を読んだ疑いだった。しかし証拠が見つからなかったため一ヶ月で釈放された。兵役期間も終わりが近づき、彼は大学で文学を学んで作家になることを望んでいた。 ノヴィコフ=プリボイが乗っていた戦艦「アリョール」ところが1904年に日露戦争が勃発。陸軍は「政治的分子」がいることを望まなかったため、彼は遠く太平洋に回航される艦隊に強制的に配属されることになった。こうして彼は戦艦「アリョール」の水兵となり、望まない形で子供の頃の夢が叶うことになった。喜望峰、マダガスカル島を廻っての太平洋への航海は距離18000海里、期間は8ヶ月に及んだ。目的地のウラジオストクに近づいた1905年5月27日、彼の属するバルチック艦隊は対馬沖で日本の連合艦隊に迎撃された。海戦はロシアの完敗に終わり、5000人近いロシア兵が戦死、彼の乗るアリョールは日本軍に降伏し、日本軍の捕虜となった。 日本の熊本市大江鹿渡練兵場にあった捕虜収容所に居る時に、彼は自らの特異な体験を綴り始めた。自分の体験のみならず、同じ収容所に居る別の艦の生き残った水兵にもインタビューし、その内容は海戦全体を概観するものとなった。1906年にロシアに帰還。ペンネームで海戦についてのエッセイを新聞に投稿した。ところがその内容がロシア海軍の恥部を赤裸々に描いたものだったので、当局に睨まれることになった。こうして彼は1907年にフィンランドを経由してロンドンに亡命した。亡命先では鍛冶屋や製本職人として生計を立てた。のち子供の頃の夢通り水夫となり、フランスやイタリア、スペイン、北アフリカで生活した。 自己紹介の手紙を送った作家マクシム・ゴーリキーの勧めで、その亡命体験記を新聞に投稿。次いでカプリ島に亡命していたゴーリキーを訪ねた。カプリ島に滞在していた1912年から翌年にかけて、海についてのリアリズム短編小説を書き、最初の本を書き上げた。別のパスポートを得て1913年にロシアに戻ったが、彼の処女作は検閲を受け、1917年にようやく出版された。翌年に始まる第一次世界大戦中は妻と共にゼムストヴォ(地方自治機関)の病院で働いた。1914年から雑誌に定期投稿するようになり、この時初めて「ノヴィコフ=プリボイ」という筆名を使い始める。 ロシア革命後の1920年、彼の主著となる「ツシマ」の完成にとりかかる。第一部「航海」は1932年に、第二部「海戦」は1935年に発表された。日本海海戦について概観した書物としては(公刊戦史を除けば)初めてのものだったが、各方面から批判を受けた。ノヴィコフ=プリボイは一般の水兵を英雄的に描いたのに対し、ツァーリズムの支配層である将校や将軍を無能として描き、敗戦の責任があるとした。とりわけ艦隊司令官ジノヴィー・ロジェストヴェンスキーを敗戦の最大の責任者として痛烈に批判している。実際は劣悪な装備や新鋭艦と老朽艦の混在など、ロシア海軍の体制に問題がありロジェストヴェンスキーや艦隊の将校の個人的努力ではどうにもならない側面もあった。ソ連邦時代にこの本は社会主義リアリズムの作品と評価され、また今日でも日露戦争を考察する際のロシア側資料として、その後のこの戦争の叙述に絶大な影響を与えており、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」もその一つである。 スターリン賞メダル晩年もロシア海軍に関する論文を数多く執筆したが、「ツシマ」ほど反響を与えた作品はなかった。1941年、「ツシマ」によりスターリン賞を受賞。最後の作品は「艦長」だった。モスクワの自宅で死去した。ヴォルガ河で運行されている客船の一つに彼の名前「ノヴィコフ=プリボイ」を冠したものがあるという。 橋立(はしだて)は、大日本帝国海軍の防護巡洋艦。松島型防護巡洋艦の3番艦である。 建造にいたる経緯については、「松島」を参照。「外国為替 」のうち、唯一の国産艦である。これは何としても主要艦艇の国産化を目指したい海軍の強い意向であったが、当時の日本の技術力ではまだ背伸びをしている感があった。結果として、建造期間が他2隻よりも長く、竣工したのが日清戦争開戦直前であった。一説には、この橋立の竣工を待って開戦に踏み切ったとも言われる。 主砲の32cm単装砲は前部甲板に据え付けられ、「厳島」と艦形が似ているが、副砲以下の装備に若干相違がある。 日清戦争では松島、厳島とともに奮戦して清国北洋艦隊を撃破し、日露戦争では、松島、厳島、そして旧敵の「鎮遠」の3隻と組んだ第三艦隊第五戦隊の旗艦をつとめた。 旧制福井県立福井中学校、正則英語学校より海軍兵学校第31期入校。入校時成績順位は196名中第7位、卒業時成績順位は173名中第6位。 海軍を志したのは福井中学校在学中で、日清戦争開戦の第一報を耳にした長谷川は、中学を退学して海軍兵学校を目指し、戦争遂行の一翼を担わんと思い立ったというが、最終的に周囲の猛反対と説得に折れて中退は踏みとどまった。 福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。FX とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。東林は砲術学校教頭や横須賀海兵団長など陸戦指導の第一人者であり、中国に於ける長谷川の活躍は津田や東林の業績なくしては成立し得なかった。 長谷川が海軍兵学校を卒業したのは日露戦争勃発間近だった為に、練習艦隊による近遠洋航海実習を経験していない。また日露戦争後に改めて実施された近遠洋航海にも参加していない。 日露戦争開戦時は戦艦「八島」に乗艦したが、旅順沖接雷事故で沈没した後は戦艦「三笠」乗組となる。日本海海戦に於けるロシア艦隊接触直後の情景を描いた東城鉦太郎画伯による『三笠艦橋の図』で、東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川である。 対英米協調派の長谷川は、同郷出身の先輩で艦隊派首領の加藤寛治とは思想的にも全くソリが合わず、長谷川は岡田啓介に重用される。 第一次世界大戦中はFX に於いてドイツの軽巡洋艦「エムデン」追撃作戦に従事した。 大正6年から15年まで途中1年間帰国した以外は、アメリカでの出張在勤が続く。この間アメリカの対日感情は漸次悪化しつつあり、黄禍論も高まりを見せた。海軍武官府では盗聴を危惧する声も存在したが、長谷川は海軍駐在武官府庁舎内での日本語使用を一切禁じ、英語のみで会話するよう海軍スタッフに命じ、自ら何ら後ろ暗さが無い事を表明した。因みに、長谷川の後任として海軍駐米武官となったのが山本五十六であり、任務引継ぎを機に山本と親交を深める事になり、対米重視の立場を鮮明化させた。 帰国後は艦長・戦隊司令官を歴任するが、この頃に連合艦隊司令長官だったのが同郷の先輩である加藤寛治である。長谷川と加藤では思想が大きく異なっていたが、それなりの礼節を保った。このように長谷川は思想信条を問わずあらゆる人々をFX したが、特に海軍兵学校と海軍大学校甲種課程が同期の寺島健中将とは「どっちが先に死んでも残った方が葬儀委員長をして送り出してやる」と誓うほど深い友情を交わしていた。長谷川は昭和45年、寺島は昭和47年死去であり、寺島は盟約を守り葬儀委員長を務める。 大陸駐留の第3艦隊司令長官に就任した際には、真っ先に中国陸海軍の首脳陣と会談している。中国将官の多くが長谷川の礼節ある態度に感服し、日中戦争で対戦した提督であるにもかかわらず、長谷川を責める者は少なかった。日中戦争勃発初期にアメリカ砲艦「パナイ」、及び、イギリス砲艦「レディバード」を相次いで誤沈する事件が発生した。これは東京裁判でも戦犯の訴追原因となった重大事件であるが、長谷川は事態を知るや早速米英両国の駐在機関に遺憾の意と謝罪を伝えている。支那方面艦隊司令長官として日中戦争の戦争責任を問う為に、連合国軍総司令部 (GHQ)は長谷川を逮捕したが、この時の対応に感服した連合国側は長谷川を無罪と判断して釈放した。しかし長谷川が戦争回避に徹した訳ではない。盧溝橋事件が勃発すると、即時に支那派遣軍首脳と会談し、勃発から僅か2日間で陸海軍の航空隊運用の役割分担を決定し、実行に移している。台湾海峡横断の渡洋爆撃は世界初の試みであるが、長谷川の即断がなければ実施が遅れていたことは必至である。 昭和15年に台湾総督に赴任した際、慣例では予備役に編入される予定だったが、南進策に取り組もうとしている海軍としては現役大将が望ましいと考え、長谷川は現役で総督となった。この時に現役総督を主張したのが指導力のなさで定評ある及川古志郎海軍大臣だったという。及川が長谷川の現役に固執したのは、南進策の重要性もさることながら、海軍兵学校同期の長谷川を現役に留めたい意向を有していたとの推測がある。台湾総督となった長谷川は、着任式後の歓迎レセプションで上機嫌になり、給仕の少女を抱き上げて膝の上に座らせ、歓迎に対する謝辞を述べた。現代の感覚から見れば明らかなセクハラで、当時でも取材班が唖然とするほど開けっぴろげな暴挙であった。長谷川は仲間内での宴会でも「愛人でも作って小洒落た小料理屋でもやらせて飲んだくれて暮らせたら最高だ」と本心を吐露し周囲を唖然とさせた事もある。もっとも、横須賀の花柳界では人気があったが家庭生活は円満であり、特に娘がいたこともあってある程度の節度を持って清遊していたという。